【これまでやってきた自分自身の演劇について-2】
- 洸太 中西
- 2020年6月11日
- 読了時間: 3分
またやっちゃったぜ。こんにちは、相変わらずスケジュール管理が曖昧な中西です。
週一は中西的にはハードルが高いのかもしれない。
さて、前回のブログでは「中西が人前に立ちたがるようになった理由」、そして6歳の中西に転機があったところまでを書きました。早速続きを書いていきたいと思います。
幼稚園も年長さんになり、小学校の見学なども終えたある日。自宅から父親が居なくなりました。
そう。転勤です。なんてことなかった。
親父殿だけ一足先に、半年ばかりの単身赴任でした。
中西の幼稚園卒園と同時にお引越しすることに。進学する予定だった小学校への見学や制服の採寸等々すべてキャンセルし、我ら一家雪深い富山県から海を渡りました。着いた先は試される大地、北海道。ここで中西は友人に恵まれのびのびと育ちます。
小学2年生の時には、学芸会であの名作「桃太郎」を上演することに。ここで中西またしても大役「おじいさん」を射止めます。このころから老け役が多かった。
桃太郎よりもセリフと出演時間が多い、完全にバグった仕様でしたが、モンペと手拭いを身に着けて無事演じ切りました。これも楽しかった。 小学3年生の終わり、母親が新聞の片隅に乗っていた募集記事に目を付けます――「市民少年少女合唱団結成、団員募集!」
とりあえず応募して、オーディション(といっても面接となんか歌ったくらい)でサクッと合格し、晴れて一期生として活動を開始。(当時入った合唱団のリンク:http://ssctomakomai.web.fc2.com/ ) ここで初めて人と一緒に何かを作ることの楽しさに気づきます。
中学生や高校生のお兄さんお姉さんにまたしてもしこたまかわいがってもらった中西はビッグなイベントに出くわします。それが非核平和都市条例制定記念講演会(http://ssctomakomai.web.fc2.com/ayumi/heiwakinen.htm 小4の中西がいる…)。 当時小学4年生、ナイスキッズだった中西は1600人キャパのホールで市のお偉いさんの目の前でなにやら歌ったのです。
恐怖と緊張となにやら高揚感とでとりあえずすごく楽しかった。ここから俄然「人前でなんかやってのけてえ!」という心持ちが高まってきたのです。
ところでみなさん、↑のリンク見ました?文中に書いてありますね?――「2人ともこの春おうちの方の引っ越しで苫小牧を去ってしまいました。」 そう、まーた引っ越しです。富山県に逆戻り。そりゃ父親の職場、本店が富山県ですもん。しゃーない。
そうして戻ってきた富山県で、転校した先の小学校では野球に明け暮れました。 小学6年生になり、左足を骨折したりしながら野球チームを卒団。学習発表会でいよいよ3度目の舞台に立ちます。
残念ながら先生たちのオリジナル脚本だったためタイトルが思い出せない。ただとりあえずゴリゴリの悪役でした。このころから悪役が多かった。で、当時の児童会長演じるゼウスにコテンパンにのされました。謎ビームを食らって。なんやねん謎ビームって。
いい加減この頃には舞台で演じる楽しさらしき欠片を見つけ始めます。自分が演じる悪役ががっつり嫌われればいいと思っていたし、それが話を見る人にとってわかりやすければなおよし、なんてことも考えていたりして、このあたりは今も大きくは変わっていない印象です。この頃から「頭を使う芝居」を続けてきたように思います。
そして中学生にメタモルフォーゼ。ここで雷に打たれるような出会いを果たすのですが、長くなってきたので次回!
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